WPIの研究を支える人たちREADING

働く環境をトランスフォームする

名古屋大学トランスフォーマティブ生命分子研究所(ITbM)

 女性研究者の雇用の増加と働く環境の改善は、日本の大学、研究機関にとって喫緊の課題だ。しかし、順調に成果を上げているとは言いがたい。世界最大級の論文抄録・引用文献データベース「Scopus」を運用するエルゼビア社が2020年11月に発表した「Gender report 2020: The Researcher Journey Through a Gender Lens」によれば、世界各国で研究者に占める女性比率が大幅に上がっている中で、日本の伸び率は最低だったという(1999〜2003年と2014〜2018年の比較)。女性研究者数が男性研究者数を上回るアルゼンチン、男女比がほぼ拮抗するポルトガルのような国もある一方、日本の女性研究者の割合は20%以下にとどまる。

 どうすれば女性研究者の雇用を増やし、離職を避け、研究力をこれまで以上に引き出せるのか。今回は、男女共同参画推進に積極的なWPI-ITbM(名古屋大学トランスフォーマティブ生命分子研究所)の取り組みを通じて、そのヒントを探ってみたい。

 ITbMは2012年にWPI(文科省・世界トップレベル研究拠点プログラム)に採択され、2013年4月に発足した。東山キャンパスにITbM棟が完成したのは2015年3月末。壁やパーティションを極力排した開放的なデザインを特徴とする新たな研究棟の中で、来訪者の目を和ませてくれる一角が、5階に設置された「キッズルーム」だ。来訪者は、5階でエレベーターを降りたとき、ガラス張りの一室で、小さな子どもたちがおもちゃで遊んだり、絵本を読んだりしている様子を見ることができる(もちろんいつでも利用者がいるというわけではない)。

図1 ITbM棟のキッズルームで研究の合間にお子さんと過ごす研究者

図2 ITbM事務部門・研究推進部門、
特任講師の三宅恵子さん

 研究推進部門の三宅恵子さん(特任講師)によれば、あえて目立つ場所にキッズルームを設置したという。

「この場所には、若い人たちに子どもを連れて仕事をする先輩の姿を見てもらいたい、とのPI(主任研究者)の思いが込められています。設置に関わった名大の理学部生命理学科の佐々木成江准教授も、建物の特等席に設置することで、研究所全体で育児を全力でサポートするという強いメッセージを出したかったそうです。休日に出勤しなければならなくなったときや、休園・休校などの突発的な事情が生じたとき、女性に限らず、男性も、お子さんをお持ちの研究者がよく利用されています。予約なしでも空きがあればいつでも使えるシステムです」

【 卓越した研究者を招聘するため 】

図3 ITbM事務部門長、
特任教授の松本剛さん

 ITbMの事務部門は、日本人研究者に対しては産休・育休制度の取得サポート、外国人研究者に対しては出産の近い場合は英語対応のできる病院の紹介や連絡サポート、入園・入学の申請サポート、さらに産休・育休中の研究者の代わりに実験を補助する研究支援員制度への申請サポートなどを行っている。これらは、他のWPI拠点や、多くの大学、研究機関も整備している支援策だが、やや珍しいのは、デュアルキャリアプログラムを持っていることだろう。国内、国外を問わず、優れた研究者をITbMに雇い入れる場合、その配偶者も研究者で、優れた業績があれば、二人まとめて雇用する仕組みだ。

 事務部門長の松本剛さん(特任教授)が、このプログラムの狙いを語る。

「研究者の配偶者もその多くは研究者であることが知られているので、配偶者と一緒に働ける環境があれば、特に中堅世代の研究者を招聘する上で有利です。デュアルキャリアプログラムは海外の大学や研究機関では一般的ですが、日本の場合、定員の制限が厳しいので、あまり見られません。しかし、ITbM副拠点長でPI(主任研究者)の東山哲也教授が中心的に名大に働きかけた結果、『名古屋大学戦略的デュアルキャリアプログラム』ができました。まだ実例はありませんが、WPIのミッションの一つは、国内外から卓越した研究者を獲得することです。その実現のための障壁はなるべく取り除かなければなりません。だからこそ『戦略的』なプログラムなのです」

【 ホスト機関の取り組みが土台 】

 松本さんによれば、ITbMの男女共同参画推進活動は、ホスト機関である名古屋大学の取り組みを土台にしているという。名古屋大学は全国の国立大学に先駆け、2003年に「男女共同参画室」を創設、学内保育園として2006年に「名古屋大学こすもす保育園」(東山キャンパス内)、2009年には「名古屋大学あすなろ保育園」(鶴舞キャンパス内)を開設、2010年以降、女性休養室(女性特有の体調不良等のための休養室)や授乳室などが新築の理学研究科内に続々と設置された。

 2015年5月、名古屋大学は、国連機関UN Womenの『HeForShe』(ヒーフォーシー)事業の『IMPACT 10x10x10』(インパクト テン・バイ・テン・バイ・テン)において、インパクト・チャンピオンに選ばれた。HeForSheとは「全てのジェンダーの人々がつながり、ともに責任を持ってジェンダー平等を推進するムーブメント」(ジェンダー平等のためのつながり:HeForShe | UN Women – 日本事務所)だ。2014年9月に男性及び男児に向けて、女性たちが直面する不平等を終わらせる活動としてスタートし、2016年1月以降は、男性以外も含むすべての人を対象にしている。IMPACT 10x10x10は、「倫理観の高さ、公的なサービスの卓越性、グローバルレベルの活動、自らの影響力を用いる意志」(HeForShe,Impact 10x10x10 | UN Women – 日本事務所)などを評価して世界の10の政府、企業、大学をインパクト・チャンピオンとして選び、ジェンダー平等に向けて変革を促すことを目的とするプログラムで、日本の大学で選出されたのは名古屋大学だけである。

「HeForSheに選出されたのは、名古屋大学の長年の取り組みが評価されたことによるのですが、これを機に名古屋大学は、従来の男女共同参画室を男女共同参画センターに改組(2017年7月)したり、ジェンダー研究に特化した蔵書と研究活動スペースを持つ名古屋大学ジェンダー・リサーチ・ライブラリを開設(同年11月)したりなど、男女共同参画推進の取り組みを発展させています」(松本さん)

【 無意識のバイアスを克服する 】

 ITbMは、男女共同参画センターやジェンダー・リサーチ・ライブラリと共に、男女平等を実現する意識を持ってもらうためのセミナーを研究者や学生を対象に開催してきた。

 その一つが、2018年10月にITbM、理学研究科主催、男女共同参画センター共催で開いた「無意識のバイアス」をテーマにしたセミナーだ。無意識のバイアスとは、たとえば女子は男子より数学の能力に欠ける、母親は父親より管理職に向いていないなど、実際には何の根拠もない、しかし誰もが潜在的に持っているバイアス(偏見)、 先入観のことである。講師を務めた沖縄科学技術大学院大学の副学長で、植物生化学・生理学者のマチ・ディルワース博士は、様々な事例を挙げ、無意識のバイアスに立ち向かう手立てについて参加者とともに議論した。

 無意識のバイアスによる悪影響としてよく知られているのは、学会賞受賞者に占める女性研究者の少なさだ。男性研究者と同程度かそれ以上の業績を持つ女性研究者が一定数いるにもかかわらず、専門分野に占める女性の少なさを考慮しても、女性が受賞する割合は一般に小さい。男女平等を実現する上で、克服すべき課題である。

「ITbMが発足したとき、岡崎フラグメントの発見で知られる岡崎令治・恒子両教授の功績を記念して、『岡崎令治・恒子賞(Tsuneko & Reiji Okazaki Award)』という生命科学分野の国際賞を創設しました。選考委員の3割は女性で、女性研究者の発掘にも力を入れています。昨年(2019年)までの5人の受賞者のうち3人は女性です」(松本さん)

 女性に対する無意識のバイアスは男性ばかりか、女性自身も縛る。高い数学能力を持っていても、女子は男子より数学の能力は欠けると言われ続けるうちに、その潜在的な能力を本当に失ったり、コミュニケーション能力が高く、強力なリーダーシップを発揮できるのに、女性は管理職に向かないと言われ続けるうちにキャリアアップを途中で諦めたりしてしまうのだ。

 このような不幸な事態を未然に防ぐには、早めの対処が欠かせない。ITbMを核として誕生した名古屋大学卓越大学院プログラム「トランスフォーマティブ化学生命融合研究大学院プログラム(GTR)」(学生はITbMの融合研究を活性化する触媒)では、参加する大学院生向けに「女性トップリーダー育成プログラム」を開講している。

 三宅さんは「女性は前に出てはならないといった偏見を、知らず知らずのうちに女性自身が内なる壁として持っている。女性が真に力を発揮するにはそれを壊す必要がある」という。

「そのために学生たちにロールモデルを見せることが必要だと考えています。2020年11月には、京都大学iCeMS教授で、ITbMの客員教授も務める深澤愛子博士を講師に招き、ITbMとGTRの共催でセミナーを開きました。彼女は、子育てをしながら研究で優れた成果を出し、科学技術振興機構主催の第1回輝く女性研究者賞を受賞するなど、ロールモデルの一人です。参加した学生さんは、さぞ輝かしいサクセスストーリーが語られるものと思ったと思うのですが、深澤さんは研究者としてあゆむ中で感じたご自身の心にあった壁や迷いをありのままに語られました。セミナーの中で『ロールモデルと比較して、自分はダメだと思わないでほしい』と述べておられたのが印象的でした。このメッセージに若い人は勇気づけられたと思います」(三宅さん)

 松本さんは、様々な支援制度を単に用意するだけでなく、それを知ってもらうことが大事だという。

「ロールモデルというと超人的な人のイメージが浮かぶと思います。たとえば、出産の翌日にはもうラボに来て実験をしていた女性研究者の話などが語り種になったりしますが、学生はそんなことは自分にはできないと思うでしょう。超人的な人でなくても、支援制度を活用しながら研究者として活躍できるという意識付けをしてもらうのもこのセミナーのねらいです」(松本さん)

 ITbM拠点長の伊丹健一郎さんも、事務部門長である松本さんも男性だが、女性の意見を取り入れ、働く環境の改善に熱心に取り組んでいるのはなぜなのか。

「世代も関係しているでしょうね。ITbMがスタートしたとき、PIの平均年齢は43歳で、自分も40代半ばでした。また研究者の多くが若手で、子育て世代だったから、女性も、男性も過ごしやすいような環境を作ろうという雰囲気が最初からありました。こちらに悪気はなくても、男性だから気づかないことはたくさんあります。たとえば新しい研究棟を作るときに、『女性のトイレが狭い、パウダールームがない』と指摘されて、はじめてパウダールームというものがあることを知りました。そもそも女性用トイレに入る機会がないので、デパートやホテルの女性用トイレが昔とは様変わりしてパウダールームがあるということも知らなかったのです。積極的に声を上げてくれる研究者がいるのはありがたいですね」(松本さん)

【 ダイバーシティ推進から研究融合へ 】

 冒頭で触れたエルゼビア社は2019年1月に発表した「Gender in the Global Research Landscape」で、日本の研究者に占める女性の割合は低いにもかかわらず、女性の方が男性よりも平均的に多くの論文を発表していること(世界的な傾向は逆)、学際的論文で上位10%に占める学術論文の割合が男性8%に対し、女性9%であることなどを報告している。女性研究者の雇用は、研究機関の競争力向上に役立つことを示唆するデータだ。

 さらに男女平等や職場におけるダイバーシティ(多様性)の実現は、倫理的に正しいだけではなく、イノベーションにつながるという見方が近年、急速に広がっている。

「GTRの女性トップリーダー育成プログラムの一環として2019年2月に自然科学研究機構特任教授の小泉周さんが講演してくれました。小泉さんは、2018年6月に掲載されたNatureの記事『Science benefits from diversity』などをもとに、なぜダイバーシティの推進が研究力強化につながるかを明確に話してくれました。研究組織のダイバーシティが高まると、様々な視点から問題を捉えることができる上、実験手法の選択肢も増える。その結果、最初に設定したゴールとは、思いも寄らないゴールにたどり着ける可能性をもつと聞き、目から鱗でした」(三宅さん)

 次のような報告もある。日本投資銀行が、三菱総合研究所が集計した特許関連データ(2018年4月まで)をもとに分析したレポートによれば、男女含むチームによる特許の経済価値は、男性のみのチームによる特許の約1.5倍、さらに日本人のみのチームよりも、日本人と外国人を含むチームによる特許の経済価値は約1.3倍だったという。

図4 キッズルームの前にて。左から松本剛さん、三浦亜季さん(GTR学生支援室)、三宅恵子さん

「ITbMが目標に掲げる研究分野間の融合とダイバーシティの推進には共通性があると感じています」(三宅さん)

 研究分野の融合は、結局のところ、研究者一人一人の活発な交流、議論から生まれる。個人間の偏見が融合を阻害するのは間違いない。科学のあり方、社会のあり方を変えるほど大きなインパクトを持つ「トランスフォーマティブ生命分子」を名前に含む研究所が、女性の活躍促進のためにトランスフォーム(変革)に取り組むのは当然のことかもしれない。

「今は働き盛り世代の課題に中心的に取り組んでいるところですが、年を取れば別の課題が見えてくるでしょう。たとえば、家族の介護をする研究者をどうサポートするかといった課題です。男女共同参画の推進をきっかけに、働く環境をもっと改善していきたいと考えています」(松本さん)

【取材・文:緑 慎也、写真提供:ITbM】


関連情報

過去記事